
鯨肉は江戸時代には庶民の食べものとして定着し、戦後の食糧難の時代には大事なたんぱく質源として日本人の食生活を支えました。約40年前、国際的な取り決めにより商業捕鯨が禁止され、鯨肉は食卓から姿を消しましたが、現在再び気軽に買える食材になりつつあります。
料理人で食品科学に精通した松本青山さんは、牛や豚、その他の獣肉とも異なる特徴をもつ鯨肉を科学的に考察し、おいしい食べ方を広げるべく、『鯨肉料理』を7月に出版。鯨肉とはどういう肉なのか、松本さんに教わりました。
協力=松本青山、増本幸恵 写真=板野賢治 文=編集部
「うかたま」79号(2025年夏号)掲載

B5判 144頁
定価 3,960円 (税込)
なぜ今、「鯨肉料理」なのか
鯨肉と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。ある年代以上では、給食で食べた「鯨の竜田揚げ」を思い出すかもしれない。一方で、鯨肉を見たことも食べたこともないという世代も少なくない。現在鯨肉は日常的な食材としてほとんど認識されていないからだ。でも日本では鯨は、牛や豚などの家畜動物よりもずっと長い歴史があり、肉はもちろん、皮や尾びれ、脂、ヒゲまで、丸ごと一頭無駄なく利用しつくす文化があった。
捕鯨の歴史は縄文時代に遡る。最初は湾に迷い込んだ鯨を捕獲していたが、弥生時代には船で沖に出て鯨漁をしたといわれている。仏教が伝来し、公には獣肉を食べることが禁じられても、鯨は魚とされていたこともあり、貴重な食料として長い間庶民に親しまれてきた。
しかし1970年代、アメリカを中心に反捕鯨運動が活発になり、国際社会における捕鯨規制が強化されると、日本は88年に*国際捕鯨取締条約(ICRW)の商業捕鯨モラトリアムを受け入れる。それ以降約30年、商業捕鯨を停止していたが、2019年に国際捕鯨委員会(IWC)を脱退。一部の捕鯨を再開した。そして現在、鯨肉の流通は徐々に広がっている。最近はスーパーでも比較的簡単に入手できるようになり、「鯨の竜田揚げ」が給食のメニューに復活している小中学校もある。
鯨とともにある和田浦
「40年ほど前に商業捕鯨が禁止され、鯨肉は私たちの暮らしの中から一気に消えました。そのため現在は、料理人でも鯨肉の扱い方をよく知らないことが多いのです。さらに、食品の栄養や成分、保存などを科学的に分析する食品科学が発達したのはこの空白の40年の間なので、鹿肉や猪肉などジビエの食べ方は研究されていても、鯨肉に関する研究はありません」。こう話すのは、日本料理人であり、食品学者でもある松本青山さん。流通が再びさかんになると思われる今こそ、鯨肉の食材としてのすばらしさと、捕鯨や鯨肉料理の文化を伝えたいという。
松本さんが鯨肉に出合ったのは、幼少期から頻繁に訪れて過ごした千葉県南房総市和田町(和田浦)だ。和田浦は関東で唯一捕鯨文化が根づく町。おもにツチクジラという小型の鯨が捕獲されている。ツチクジラはICRWで捕獲を禁止されていないため、これまで途切れることなく捕鯨文化が続いてきた。
「7月に捕鯨が解禁されると、毎日のように鯨が揚がります。港の堤防でアジやイワシを釣っていると、岸壁につながれた鯨がプカプカ浮いているんです。沖合で捕獲され、船で漁港まで引っ張ってこられた鯨ですね」

和田浦で行なわれているこうした捕鯨方法は、「基地式捕鯨業」と呼ばれる。大型船舶で遠洋を目指し、そこで捕獲した鯨を船上で解体、加工、冷凍する「母船型捕鯨業」に対し、基地の沿岸海域で小型の鯨を捕獲し、漁港に戻って解体する方法だ。現在は和歌山県太地町、千葉県南房総市和田、宮城県石巻市鮎川、青森県八戸市、北海道釧路市、北海道網走市の6カ所に基地がある。
漁港に引き上げられ、鯨が解体されると、さばきたてのかたまり肉を買うため、地元の人たちがバケツやポリ袋を持って集まるという。鯨漁期が終わる8月末頃までの約2カ月、人びとは鯨肉を買っては専用の冷凍庫で冷凍保存したり、「鯨のたれ」と呼ばれる干し肉をつくって、1年中味わうそうだ。
鯨漁期の風物詩
「鯨のたれ」は、かたまり肉を薄切りにして、特製の醤油ダレに漬けて干す。タレの味付けは各家で甘みが強かったり、塩味が濃かったりといろいろだという。「家々の軒下で洗濯物みたいに干すから、肉とタレのにおいにつられてやってきた野良猫が、滴り落ちるタレにまみれて生臭くなっちゃって。それが和田の夏の風物詩」と松本さん。「たれ」は真っ黒でジャーキーのように噛み応えがあり、軽くあぶって食べるのがおいしいのだとか。

「冷凍した鯨肉は、お客さんが来ると解凍してもてなします。私が子どもの頃は、町には小さな商店しかなく、いつでも肉を買えるような状況ではなかったので、鯨肉は重宝されたのでしょうね」
松本さんおすすめの食べ方は、焼肉。最初は強火で香ばしく焼くのがポイントだそう。「フライパンは煙がたつくらい熱し、油を全体に回して肉を入れましょう。できるだけ短時間で表面を焼き固めることで、肉汁が流出しにくくなり、うまみを閉じ込めることができます。食べるときはおろし醤油をたっぷりのせるのがおすすめ。大根おろしが生臭さを消してくれます。好みで粉山椒やすりおろしたにんにく、しょうがを足してもいいですよ」
*国際捕鯨取締条約と日本
1946年、地球上の鯨資源を適切に保存し、捕鯨産業の秩序ある発展を可能にすることを目的として、アメリカで国際捕鯨取締条約(ICRW)が締結された。国際捕鯨委員会(IWC)は、この条約に基づいて48年に設立された国際機関。日本は51年に条約を締結し、IWCに加盟した。
条約には「鯨類資源の適切な保存」と並び「捕鯨産業の秩序ある発展」を可能にすることが明記されているが、70年代に世界的に広がった反捕鯨運動の結果、82年に一時的に商業捕鯨をゼロとする「商業捕鯨モラトリアム」が採択された。これは、鯨類の資源管理に必要な科学的情報に不確実性があるため、この期間に科学的情報の包括的評価を行ない、遅くとも90年までにゼロ以外の捕獲枠を検討するものだった。
日本は30年以上にわたり交渉したが、反捕鯨国の歩み寄りはなく、現状のIWCでは「持続的な利用」と「保護」の両立は困難と判断。2019年6月に脱退した。現在南極海では捕獲を行なわず、日本の領海・EEZ内で、十分な資源量が確認されている種に限り商業捕鯨を再開している。
参考URL:水産庁HP「捕鯨の部屋」
次回の「いま、知りたい 鯨肉のこと」(後編)は、鯨肉の特徴やおいしい食べ方についてです。
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